医学部入学前
臨床検査技師だった祖父の影響で、中学生から医師を目指した私は、地元の進学校に運良く合格するも成績は「鳴かず飛ばず」どころか、「下の下」という状況で、高校3年間を過ごしました。現役受験時は当然のごとく、国立はおろか、私立の医学部も含め、受験した全ての医学部に不合格となり暗い浪人生活に突入することになりました。紆余曲折あって、大阪の「○国予備校 大阪校」(2004年閉校)で、全寮制の辛く厳しい浪人生活を、1年間送ることになりましたが、奇跡的に某地方国立医科大学に合格することができました。
医学部入学後~医師になるまで
しかし、大学合格後は目的を失い、自暴自棄となり、追試の嵐に見舞われながらも、奇跡的に留年することなく卒業、国家試験にも合格し、医師免許を取得することができました。当時は、卒後臨床研修義務化(スパーローテートと呼ばれていました)前でしたので、卒業後のゴールデンウイーク明けに医局に入局、専門医研修が始まるシステムでした。完全にモラトリアム化していた私でしたので、医師人生の岐路とも言える大切な医局選びも適当でした。卒業前に、親友に連れられて訪れた某医局で、医局長の「夢と希望ににあふれた」話(入れ入れ詐欺)を聞いて「なんとなく・・・」入局してしまいます。
入局後の異動歴
入局後は、社会人としての自覚もないままに、約1年間の大学病院での研修を経て、おきまりの医局人事で、巨大認可法人が経営する民間病院に異動となりました。この時点で20才台中盤でしたが、当時の私の脳内には、「スキルアップ」「資産形成」等のキーワードは欠片も存在しませんでした。当時の脳内を占めていたのは・・・(今後機会があれば紹介させて頂きます)
さて、その後、大学病院での1年間の救急部生活を経て、県を越えて、東北地方の病院への異動となります。異動先の病院は完全な私立の民間病院で、2年間お世話になりました。
その病院は700床前後の大病院であるにもかかわらず、医師数が極端に少なくハードな全科当直が名物で、残業、呼び出しも多く、ほぼ「病院に住んでいる」状況でした。ただ、その分、給料も破格に良かったのですが、当時の私のmottoは「宵越しの金は持たない」でした。
これには、当時、可愛がって頂いた外科の先生方の影響が大きかったと思います。都内の某私大医局から派遣されていた外科の先生達は、都会的でキラキラしていて格好良く田舎者の自分にはとても輝いて見えました。
私の父親は、一般企業に勤める典型的なサラリーマンでした。出身地も「最高建造物が5階建ての市役所」という田舎であり、小・中学校、高校ともに全て公立校で育ち、大学も地方の国立大学でした。
大学時代の娯楽と言えばボーリング or カラオケボックスのオルタナティブで、バブル末期の当時は「ジュリアナ東京」などの巨大ディスコ(今では恥ずかしワード)の全盛期でしたが、自分たちには遠い存在でした。すいません。話が少し脱線してしまいました。
このように遺伝子的にも環境要因的にも「田舎」「普通」な人間が「都会」「リッチ」という、言わば対立遺伝子のフェノタイプとも言える「高級車」「クラブ貸し切り飲み会」「高級マンション」という環境に曝露され続けるとどうなるのか・・・それは悲しい勘違いを生じることになります。
童話「みにくいアヒルの子」では、アヒルの群れにコンタミした白鳥の子が、アヒル達にいじめられる悲哀が描かれていますが、私の場合は真逆のシチュエーションでした。白鳥の群れの中に迷い込んだアヒルの子が、何故か白鳥達から温かく、優しくされた結果、「自分も白鳥なのでは?」と思い込む(勘違い)ようになってしまうのでした。
そして、そんな生活に染まりながらも、30歳を目前に、結婚することになります。
結婚を期に、かどうかは不明ですが、2年間の「田舎における都会生活」というパラドクスに終止符を打たれ、大学近隣の500床前後(精神科300床)の私立病院に異動になります。
異動先は常勤医2名(部長と私)の忙しい病院だった割には、給料は低かったです。 にもかかわらず、白鳥気分のアヒルの子は、異動直後の4月末に結婚式を上げることになるのですが、結婚式場は居住地から車で2時間以上かかる東京近郊の某テーマパークのオフィシャルホテル、新婚旅行はSQのビジネスクラスでバリ島のクラブアットザレギャンの貸し切りヴィラ、という血迷いぶりでした。
「宵越しの金は持たない」と言いながらも、前任地の東北の病院では、忙しさにかまけてお金を使う機会を逸していたこともあり、当時の貯金は600万円くらいありました。
しかし、結婚式+披露宴+新婚旅行+引っ越しの多重攻撃で、貯金は大幅に目減りしてしまいました。
そんな中、結婚したら新車に乗り換えねば、と思っていたところに、大好きだった祖父から結婚のお祝い金をもらい、なけなしの貯金も全額投入して新車のクラウンを購入しました。「いつかはクラウン・・・」この響きに酔っていました。
かくして結婚後のわずか1ヶ月間で全ての貯金を使い果たしたにもかかわらず、その時の私に「後悔」の文字はみじんも浮かんでいませんでした。どころか「俺って順風満帆じゃね」くらいの気持ちでした。
当時の私は「マネーリテラシー」なんて言葉は聞いたこともありません。「医者をやっていればお金に困ることなんかない!」と堅くマインドブロックされていました。この破産結婚式(略してハサ婚)については、機会があれば詳しく取り上げようと思っております。
さて、そんなハサ婚後も意気揚々としていた私ですが、異動からもうすぐ1年、というタイミングで、第1子を授かり、その直後に、またまた異動となります。
異動先は初の公立病院となる県立病院でした。ここでの勤務は当直もオンコールも残業も多く激務でしたが、給料は東北の病院くらいに良かったです。子どもも産まれたことだし、ワンコもいることだし、アパートよりも戸建てだよね、という発想の元、人生初めての戸建て賃貸に入居しました。見晴らしの良い丘の上に建つ築浅の小洒落た戸建てには、当然のように2台の駐車場つきで、家賃は13万円くらいだったと思います。
そして1年後に、今度は関東の私立病院に異動となりました。戸建ての快適さを知ってしまったたけ蔵一家は、当然のように戸建ての賃貸に入居します。今回は新築戸建てで、家賃は13万円くらいだったと思います。
引っ越し遍歴についてはこちらの記事にまとめておりますので是非ご覧下さい。
この病院の給料はごくごく一般的でしたが、比較的ノンビリしていて、成田空港も近かったので、夏休みには、まだ1歳の娘を連れてハワイ旅行に行くことに。飛行機はビジネスクラス(チャイナエアラインでしたが・・・)で、宿泊先はハレクラニにしました。なんだかんだで100万円くらいかかったと思います。
残念なことに、この頃はマイルや航空会社に関するリテラシーも低く、チャイナエアは日本の航空会社のアライアンスに属していないために、マイルがたまらないことも*、ビジネスクラスの座席がフルフラットにならないことも知りませんでした**。でも当時の私にとっては「ビジネスクラス」という響きこそが重要だったのでした。
*エアチャイナはスターアライアンスメンバーなのでANAとの提携があります。**プレミアムビジネスクラスはフルフラットです。
そんなこんなで散財し尽くした1年間が終了し、またまた異動となりますが、なんと異動先は痛恨の大学!となってしまいます。しかも身分は「大学院生」!一応、給料は出ますが、国立大学医員の安月給の上に、学費まで払わなければならないという2重苦生活のスタートです。
大学院生と言っても、実際には朝から夜中まで臨床と医局のdutyに追われる毎日で、研究などする暇は全くありません。と言っても、研究するマインドも全く持ち合わせていなかったのですが・・・そんな中、第2子を授かりました。
当初は「とにかく一刻も早く大学とはおさらばしたい」「研究なんてダサ!」と思っていたのですが、紆余曲折の末、ビギナーズラックで奇跡的に科研費が獲得できたりと、人生は思わぬ方向に転進ることになりました。結果的には10年近く大学に在籍することとなり、気付けば学部講師となっていました。
プライベートでは大学の近くにマイホームも建て、永住気分まんまんの私は、「このまま大学教授をめざそう!」という野望(妄想)にとりつかれていました。この約10年間に及ぶ大学生活についてもいずれ、お話しさせて頂こうと思っております。
紆余曲折の大学生活の後、現在の勤務先となる私立病院に異動となるのですが、異動直前の総資産は以下の通りです。詳細はこちらの記事にまとめております。
金融資産:20万円程の株式証券+銀行貯金40万円
不動産:太陽光発電(ローン)
自宅の土地・建物(マイホームローン)
自家用車2台(マイカーローン)
*ローンは全て頭金なしのフルローン
ちなみに、こども達は成長して第1子が中学2年生、第2子が小学5年生となっており、今後、教育費の嵐が荒れ狂うタイミングなのですが、その頃の私は、そんなこと知る由もありませんでした。