勤務医人生 資産形成

「金持ちじゃない」と認めることが資産形成のスタートライン

バブルの残り香漂う20年前の医療界

私の医師歴は20年以上となりますが、経済的側面から後方視的に医師半生を振り返ってみますと、「しくじり半生」でした。しかし、当然のことながら当時はそのことに気付いているはずもありません。これには環境や時代背景も大きく影響していたと思います。

私が医師となった1990年代後期はまだ、バブル経済の残り香が医療界に漂っている時代でした。その最たるものがMRさんの製品説明という名の下に開催される接待でした。また、都内の一流ホテルで開催される大規模な製品説明会には往復のグリーン席のチケットと、タクシーチケット、一泊2日朝食付の宿泊が3点セットになっているのが当たり前でした。

このような説明会では、第一人者の60分前後の講演を2-3本聴講することになるのですが、講演会が終了すると、決まって別会場に移動しての「懇親会」となります。そこには豪華絢爛なバフェが用意されており、体育館ほどの大きな会場の壁際には、銀座の有名寿司店や、天ぷら店、蕎麦、ステーキ、ローストビーフなどのケータリングサービスが並んでおり、お祭り気分を盛り上げています。もちろんアルコールコーナーにはシャンパンからワイン、有名銘柄の日本酒や焼酎などがラインナップされていて飲み放題です。時には生演奏などのパフォーマンスが用意されていることもありました。

パーティ

懇親会が終了すると、会場からの導線内に患者さんへのムンテラ補助ツールや販促グッズなどの配布会場がありました。今でこそ、販促用のノベルティといえばボールペンが定番となりましたが、当時は社名入りの電波時計や電動歯ブラシ、体重計など、なぜ?と思われるようなミニ家電や文具も蛍光ペンセットや、付箋セットなど持ち帰り放題でした。

他にも「忘年会はホテル全館貸し切り」など、この場ではなかなか文章にしづらいような話もまだまだありますが、この記事を読んで懐かしさを感じてくれる50歳以上の先生や、俺の頃はもっとすごかったぞ!というご経験をお持ちの60歳以上の先生もいらっしゃるのではないでしょうか。今の研修医の先生には想像できないかもしれませんね。

 

バブルの終焉

公的病院よりも、私立病院に勤務する機会が多かった私は、医師免許取得後の多感な10年間を、バブルの残り香に酔わされながら過ごすことになり、「医師は贅沢な暮らしをしても良い職業」いや、「医師は贅沢な暮らしをするべき職業」という間違ったマインドセットに支配されていくことになるのでした。

現在はこのような接待は存在しません。2012年から医療用医薬品製造販売業公正取引協議会が接待の規制を強化し、ゴルフやカラオケなどの娯楽の提供の禁止、医療情報提供のための飲食代金は一人5千円以下、二次会禁止などが明文化され、実質的にMRさんからの接待は禁止となりました。

このように医師を取り巻く経済環境(接待環境)はバブル崩壊、リーマンショックなどを契機に大きな変貌を遂げています。

お金も時間も求めてはいけない大学勤務

医師10年目を目前にした大学勤務を期に、私のマインドセットは真逆の方向に矯正されていくことになります。

金が欲しいヤツは大学にいる必要なし」というのが教授のポリシーでした。しかし、大学勤務は市中病院での勤務医以上にお金がかかりま学会参加費、そのための旅費・交通費から論文作成時の英文校正費、飲み会や入局勧誘会などの接待交際費、医学書などの新聞図書費など、とにかくお金がかかります。これらのお金は、いわば経費のようなものですが、勤務医はサラリーマンなので税務上は、経費として計上できません(厳密に言うと特定支出控除がありますが)。

さらに追い打ちをかけるように、国立大学医学部での給料は薄給で、外勤と呼ばれるアルバイトは生活を維持する上で必須です。給料が低くても、時間的自由があれば多少救われますが、dutyとして大学での当直業務が重くのしかかります。医局にもよりますが、私の場合(当時の手帳を振り返ってみると)月に6-7回が平均でした。これに加え、救急センターなどでの当直勤務も、医局と家計維持のダブルプレッシャーにより実質的にはdutyです(月に2-3回)。そして週末には学会、研究会が入ることが多く、妻からは「単身赴任と変わらない生活ね・・・」と言われる始末でした。

当時のキャッシュフロー

このような大学生活が約10年続くのですが、マネーリテラシーという言葉も知らない当時の私は家計は全て妻に任せており、我が家のCF(キャッシュフロー)を全く把握しておりませんでした。その根底にあったのが「俺は医者なんだから、金なんてだまっていても貯まるだろう」という幻想に支配されていました。

当時のインフローはこんな感じでした。

①大学からの給料

②外勤先A病院からの給料

③外勤先B病院からの給料

④救急センターからの給料

⑤C病院での当直料

(大学生活後半になると講演料や原稿料が入るようになりますがここでは削除)

このようにインフローが一元化されておらず、上記の①以外に基本給はありませんので、②~⑤は勤務日数により給与額も変動します。給与振込口座、振り込み日を統一させていなかったことも、我が家のインフローを把握させにくくしていた元凶でした。

住宅ローンはボディブロー

当時の私は、これらの給与の管理は全て妻に丸投げし、私自身は月8万円のお小遣い制にしていました。「それでも妻が上手くやり繰りしてくれているだろう」と高をくくって、35年の住宅ローンを組みマイホームも購入しました。

医局の先輩達からは「大学院生が家を建てるなんて前代未聞だ!」と冷ややかに陰口たたかれながらも「二人のこどものためにも、今、家が必要なんだ!」と迷いはありませんでした。今思うと「我が家にとっては」この決断だけは正解でした。ただ、月々15万円のローンが、当時の家計をさらに逼迫させていたことは間違いありませんでした。

マイホームの購入に連鎖するように、新たにローンを組んで「太陽光発電」(収支などをこちらの記事で紹介しています)を後付けしました。車の買い換え期も重なり自家用車もボーナス併用払いのローンで購入。完全にローン地獄一直線でしたが、危機感ゼロでした。

忍び寄る家庭崩壊の足音

この頃から妻の様子がおかしくなってきました。お金のことで喧嘩する機会が明らかに増えました。今までは何も言われることのなかった私の小遣いにも不満を漏らすようになってきました。そこで、「それなら少し貯金を下ろすか、貯蓄額を減らせばいいだろう!」と言ったときです。

「何言ってるの?貯金なんて1円もないよ!」

は・・・?何言ってんだ?

1円もないのは大げさとして、100万くらいはあるだろう?

・・・通帳を確認・・・

「え~~~~!? まじで、6万円しかない!」

初めて気付かされました。お金がないことに。そして、この日が私のスタートラインとなったのでした。

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